2009年01月11日
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戦前の「電鉄」は「電気で動く鉄道の会社」ではなく「砂利会社+電力会社+鉄道会社」だった!!

Written By: 川俣 晶連絡先

 京王は戦後2回の社史を発行しており、どちらも手元にあります。

 そのため、何となく、戦前の社史も同じような内容だろうと漠然と予想していました。

 しかし、戦前の「京王電気軌道株式会社三十年史」や「京王電車回顧十五年」を見てまるで違うことを痛感しました。

※ 戦前の京王は電気軌道であり電気鉄道=電鉄ではありませんが、軌道も広義の鉄道の一種であるし、話の分かりやすさのためにこれも「電鉄」の一種として扱います。

 戦後の「電鉄」はもちろん「電気で動く鉄道の会社」が基本であり、鉄道を軸に不動産やバスなどの事業も手がける形を取ります。これが、我々が知る「電鉄」のよくある姿です。

 しかし、戦前の「電鉄」は電気を売る電力会社としての顔も持ちます。「電鉄」は鉄道を走らせるために送電線を設置しますが、送電線が設置される地域にはまだ電気が来ていないケースも多かったわけです。ですから、その地域に電力を供給して売る商売もあり得るわけです。実際に電力会社として電気も売った「電鉄」は多かったと思います。京王も例外ではありません。現在、そのような形態が見られない理由は、戦争の際に電力事業が国策により戦時統合された後、元の会社に返されなかったからに過ぎません。

 (念のために補足すると戦時統合されたのは電力だけでなく、鉄道も統合されている。たとえば、東京の私鉄は全て統合されていわゆる大東急を構成する。京王も、一度は大東級に吸収された後、戦後分離して出直している)

 もう1つ、多数の「電鉄」において「砂利」は重要な商品になります。都心部で行われる建設には砂利が必要ですが、それは多摩川などから都心に鉄道輸送することが効率的であり、これも儲かる商売です。実際、玉電(現存しない)、下河原線(現存しない)、南武線、京王の調布・京王多摩川間、西武多摩川線などは、砂利輸送を意識して建設された路線です。現在、これらの路線が砂利を運んでいない理由は、砂利が乱獲されすぎた結果として多摩川の砂利採取が禁止たからでしかありません。現在、玉電、下河原線は存在せず、京王の調布・京王多摩川間は相模原線の一部となり、他の路線も通勤電車ばかり見かけます。ですから砂利を意識した路線がいくつもあるという印象は受けないかもしれません。しかし戦前は違います。

まとめ §

 つまり、戦前の「電鉄」とは、まず「電力会社+鉄道会社」であり、特に多摩川へのアクセス経路を確保して砂利輸送を意識した「電鉄」は「砂利会社+電力会社+鉄道会社」であったと言えます。「京王電気軌道株式会社三十年史」に見て取れる「電鉄」の姿とは、まさにこれです。

余談・下高井戸と砂利 §

 現世田谷線が下高井戸を終点とすることも、砂利輸送のための選択という話がありますね。実際、下高井戸駅には砂利置き場もあったし、京王側の下高井戸駅にも貨物用の引き込み線があったようです。

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